新月の夜。
商都メルカントの闇の中をひとつの人影が疾(と)く駆けていく。
人影?
その様子を目にしたとして、かつそれが人の影だと仮に告げられたとして、それでも殆どの者はその首を傾げることだろう。
それは、まさに目にも止まらぬような速さだった。
しかも、静かに。
盗人の名はエディ。
若手でありながら、所属ギルド内でも「業足(わざあし)」の二つ名を与(あずか)る、盗みを専門とする盗賊だった。
しかし、今宵の「獲物」はメルカント評議会公認の盗賊ギルドが指示を出したものではない。エディ個人の「盗み」だった。
狙うは、商都の有力者たちとも親交があるという魔女ウィステの館に保管された「永遠の燭台」。
そこに灯された炎は、蝋燭が溶け消えてもなお中空で永遠に燃え続けるのだという。
そんなもの、いったいなんの役に立つってんだ。殆どガラクタじゃねえか。
その燭台の話を聞いてエディは思ったものだった。
だが彼にとって、それが果たして何の役に立つのかなど、この際、大して重要な問題ではない。
忍び込み、そして盗みを成功させた、その証しが必要なのだ。
ウィステの館に盗みを働いた、そしてその大胆不敵な試みを首尾よく完遂してみせた、その名声が欲しいのだ。
流れ着くようにしてこの都市にたどり着き、既に半年が経過している。
これまでに何件もの「仕事」を無難にこなし、着実に実績を積んできた。
中堅連中からの注目も肌で感じられる程になり、数ヵ月前には「二つ名」もついた。
順風満帆。
ここ最近は、彼にとって退屈に過ぎる程の「ぬるい」生活が続いていた。
よっしゃ。ここで一発、何か派手なことでもやらかして、俺の名をこのメルカント中にどかんとでっかくぶちあげてやろうじゃねえか。
そんなことを考えたのが今日の正午、安酒を呑みながらの「朝食」の時の話。
そうして今回、標的となったのが、盗賊仲間内でも何かと「あの館にだけは手を出すな」と引き合いに出される魔女ウィステの館だった。
なぜ敬遠されるのか、詳しいことはわからない。
ただ、盗みに入っても、その試みに成功した者は誰一人としておらず、いつの間にやら難攻不落の代名詞として知られるようになったのだと聞いている。
住人の魔女はギルドの上客であり、お互い、持ちつ持たれつの関係にある。
しかし裏社会の常として、そうした「顧客」もまた、案件によってはギルドの「標的」となることも間々あることだ。
エディにとっても遠慮の念を感じるいわれなど微塵もない。
無論、しくじれば身の破滅。
いくらなんでも命までは取られないだろうが、ギルドからの追放は免れない。となれば必然、このメルカントでの居場所も失うことになる。
だが、それが良い。その危うさがたまらないのだ。
敷地に侵入し、館に忍び込み、屋敷の奥へと進んでいく。
番犬が放たれているわけでもない。不寝番がいるわけでもない。何か罠が仕掛けられているわけでもない。
障害と呼べるようなものに何一つ出くわすことなく、まるっきり拍子抜けするような順調さでここまですんなりと事が運んでいる。
これで難なく目的のものを手に入れ、そのままギルドへ持ち帰ったとしても、とてもではないが周囲に自慢してやろうなどという気になれるわけがない。
これじゃあただの「空き巣狙い」かよ。俺は、そこら辺をうろついてるような「こそ泥」連中とは格が違うんだぞ。ったく、バカにしやがって。
もはや失望の念をすら覚え、もうこのまま何も盗らずに引き返してしまおうか、そんなことを一人、考えていた時だった。
「ああっ、ラッド!あなた、またやったわね!」
静かな夜気の中、甲高い女の怒鳴り声が耳朶を打つ。
進む廊下の先に、ひとつの大広間がその両開きの扉を大きく開けて広がっていた。
そろそろと広間に足を踏み入れ、四方をざっと見回す。
天井には、この瀟洒な屋敷に相応しい重厚さと荘厳さを兼ね備えたシャンデリアが吊るされている。卓上にはいくつもの枝を持つ燭台、壁には数枚の絵画、調理などのためではなく、あくまでも調度品として造り付けられた暖炉。
燭台の一つには微かな炎が灯っているが、弱弱しく細々とした明かりで、これ一つでは、とても照明としての役割を果たしているとは言えないものだった。
そして床には、よく刈り込まれた芝生のようにふかふかの触感を備えたビロードの絨毯。
そこに、長身の女が立っていた。左手に何かを掲げ持っているようだ。この暗がりの中、シルエットしかわからないが、長い髪を腰まで流れるに任せ、ゆったりとした薄手の衣服をまとっている。
「もうっ、いい加減にしてちょうだい!こんなところに粗相をしてくれちゃって!この絨毯、傷まないよう洗濯するのに、いったいいくら掛かると思っているの!」
と、女が掲げていた「何か」が跳ねるように一瞬、動く。
と同時に響く、一つの鳴き声。
「ニャァッ!」
猫だ。何かを警戒するように、短く鋭く、猫が鳴いたのだ。
一目瞭然の状況だった。
飼い猫に絨毯を汚され、激怒する館の主。
ギルドが恐れる噂の魔女が、一匹の猫に懊悩している。
くっ、くだらねえ・・・。
元から油断していた。そこに来て、このどうしようもなく馬鹿馬鹿しい事態との遭遇に、エディは我知らず、クスッと口の端から笑いの吐息を漏らしていた。
魔女が素早くこちらへ目線を向ける。
「何者?」
魔女の上げる誰何(すいか)の声にようやく我に返るエディ。
やべっ!
慌てて踵(きびす)を返そうとする。
「業足」の名に懸け、「逃げ」でしくじるなどエディにはあり得ない話だ。
しかし、魔女の対応はあまりに迅速だった。
「捕らえよ!」
足元で何かが蠢いた。そう思った瞬間には両足が絡め取られ、そこからその何かがさらに自分の上体へと這い上がろうとしてくるのがわかった。
得体の知れないものへの恐怖で叫び声をあげそうになったその瞬間、今度は体が強く上方へと引き揚げられ、危うく舌を噛みかけるエディ。
「灯れ!」
暗闇に再び響く鋭い声。
と同時に、一瞬、目が眩むかと思う程の光明がエディの視界を覆う。
「ほほう、我が館に盗賊とは。一体、何十年ぶりのことかしら。これは大した度胸をした勇の者か、それとも身の程知らずの愚か者か・・・」
そろそろと目を開く。
シャンデリアの明かりが煌々と広間の隅々までをも照らしている。
目の前に、落ち着いた雰囲気をまとい、理知的な容姿をした女がいる。
逆さまに吊るし上げられ、まさに「惨め」としか形容のしようがないそんな様子のエディを、冷然とした表情でただじっと見つめている。
エディは、不自由な姿勢で自身の身体をあらためた。
こいつは・・・、蔓?
自分の身体を戒(いまし)め、中空に吊るし上げているもの。それは、藤の蔓だった。互いに絡み合って、まるで綱のようになった太い何本もの蔓。エディがどうにかその束縛を解こうとしても、まるで何十年も前から永くそこに根付いていたかのように寸分とも微動だにしない。
「さて、それではひとまずお前の名前でも聞いてやりましょうか」
女の静かな声。
怒りや怯えといった感情ではなく、若干の好奇の念を帯びた問い掛けだった。
半ば観念し、素直に返事をするエディ。
女は、その応えに軽く首を捻った。
「エディ?ふうん。随分とありふれた名前だけれど、なんだか引っ掛かるわね・・・」
小綺麗で清潔感のある服装。どこか教育者然とした佇まいに居丈高な態度。どうやらエディが普段から苦手とする部類の人間のようだ。
「ああ、そうか。この前、ギルドが寄越してきた斡旋目録に掲載されていた名前ね。確か『二つ名持ち』として特記されていたはず。でも、まだメルカントに入って比較的、日が浅いということだったと思うのだけど・・・。いえ、そんなことは別にどうでも良い話ね。まあ、お前のことはこれくらいにしておきましょう」
名を知ればもう十分、とでも言うように、魔女はエディの方から視線を外した。
ドスン!
床の上へと無様に落下するエディ。
足を掲げ上げていた藤の蔓が、突然、消え失せたのだ。
受け身をまともに取ることもできず、頭から真っ逆さま。下手をすれば、首の骨を折りさえしかねない状況だったが、それでも背中をしたたかに打つ程度で済ませられたのは、エディの反射神経のなせる技だった。
とは言え、そのあまりの痛みに、歯を食いしばるようにしてしばらくの間、そのままじっと耐える以外にない。
「そんなことよりラッド、問題はお前よ。本当にもう、一体、どうしてくれようかしら」
掲げ上げたままの猫に向き直る魔女。
と、不意に表情を明るいものへと変え、少し弾んだ声で魔女は言った。
「ふむ、そうね。この男、このまま街の衛兵に突き出してやってもいいのだけれど、我ながらこれはなかなか面白いことを思い付いたわ」
首根っこを捕まえていた猫をさらに高く掲げ、女は何やら呪文らしきものを口の中で呟いた。
な、なにを・・・!?
うろたえるエディ。
自身の身体の周囲に、何やら正体不明の光が輝きだす。
と同時に、突然、時ならぬ強烈な眠気が襲ってくる。
抗すること出来ず、エディはあっという間に意識を失って・・・。
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